「ブランドストーリー」

かつて薩摩藩を、明治維新を支えた場所で。
「唯一無二」の本格芋焼酎が育まれていく。

「温暖な地で、清酒に負けない酒をつくりたい。
日本の蒸留酒「本格焼酎」を生み出した
薩摩人の情熱と技を継承し、薩摩藩を、明治維新を支えた
串木野金山を継承して生まれたのが、「薩摩焼酎 金山蔵」です。
しかし、その焼酎づくりは、ただの「継承」ではありません。
幻と呼ばれた「黄金麹」の復活による独自の焼酎づくり。
世界で唯一の、金山の坑洞内での貯蔵。
それが、継承の先に生まれた唯一無二です。

継承がある。唯一がある。

かつて薩摩藩を、明治維新を支えた場所で。
「唯一無二」の本格芋焼酎が育まれていく。

温暖な地で、清酒に負けない酒をつくりたい。
日本の蒸留酒「本格焼酎」を生み出した薩摩人の情熱と技を継承し、
薩摩藩を、明治維新を支えた串木野金山を継承して生まれたのが、
「薩摩焼酎 金山蔵」です。しかし、その焼酎づくりは、
ただの「継承」ではありません。
幻と呼ばれた「黄金麹」の復活による独自の焼酎づくり。
世界で唯一の、金山の坑洞内での貯蔵。
それが、継承の先に生まれた唯一無二です。

その場所に、歴史あり。

17世紀半ば。島津光久公が薩摩藩の二代目藩主であった時代に、
その鉱脈は見出されました。最盛期には約7,000人もの男たちが
採掘に従事し、大正時代には金の産出量が日本一を誇った「串木野金山」。
江戸時代には薩摩藩の財政を大きく支え、明治維新の原動力となったとも
言われています。それから長い歳月を経て、この場所で焼酎づくりが
はじまりました。それは、単なる偶然か。それとも、歴史の必然か。

(写真提供:三井串木野鉱山株式会社)

「薩摩焼酎」と「金山蔵」の歴史

1546年 ポルトガル商人ジョルジェ・アルバレスからフランシスコ・ザビエルへの「日本報告」に、米から造るオラーカ(orraqua)を飲んでいるとの記録。
出典:岸野久『西欧人の日本発見−ザビエル来日前日本情報の研究−』吉川弘文館 1989年
1559年 鹿児島県伊佐市の郡山八幡神社の棟木札への大工の落書き「焼酎もおごってくれないケチな施主だ」が国内最古の「焼酎」文字資料。
1658年 川内の行商人・新原喜左衛門が串木野に金の鉱床を見つけ、採掘がはじまる。
1660年 三代藩主 島津綱貴の時代に、金山は大変栄え、7,000人もの労働者がいた。
1911年 台湾総督府中央研究所に赴任していた東京帝大出身、中沢亮治技師が泡盛黒麹菌の黒い胞子が白色へと自然変異する過程で黄金色の菌株を分離。
1919年 串木野鉱山、産金量で日本一の記録を達成。(〜1923年)
1943年 太平洋戦争のため休山。
1949年 操業を再開。
1964年 現在の三井串木野鉱山株式会社として独立。
1997年 金山の採掘を終了、休鉱山となる。
2005年 薩摩金山蔵 創業。金山坑洞内を焼酎の貯蔵庫として利用開始。

坑洞と貯蔵空間。

350余年にわたり、掘り進められた金山。
その2番坑につくられた貯蔵スペースに
「薩摩焼酎 金山蔵」は眠る。
金山の全長は120キロメートルにも及ぶという。
16層に分かれ、その高低差は約400メートル。
だがしかし、今ではその大半は水に沈む。

その場所に、理由あり。

なぜ、この場所で焼酎づくりをはじめたのか?
なぜ、金山の坑洞跡を利用して、決して利便性が高いとはいえない、
地中の奥深くに蔵をつくったのか?
その秘密は、きわめて特殊ともいえる坑洞内の「環境」にあります。
外部と遮断されたその空間は、一年を通して気温がほぼ一定。
そして、焼酎の品質劣化につながる紫外線の影響を受けません。
そう、この場所は、安定して高品質な焼酎を
生み出すための天然の貯蔵庫なのです。

時は流れていく。

甕に収められた本格芋焼酎が、
太陽の光が届かない坑洞内で眠る。
世界で唯一、金山跡地の坑洞内に
つくられた焼酎蔵で時は流れていく。